■今週のみおしえ■

[おしらせ] [一覧表示]

2017 年 6 月
- - - - 1
2
3
4
5
6
7
8
9
10
11
12
13
14
15
16
17
18
19
20
21
22
23
24
25
26
27
28
29
30
-

2017 年 05 月
- 1
2
3
4
5
6
7
8
9
10
11
12
13
14
15
16
17
18
19
20
21
22
23
24
25
26
27
28
29
30
31
- - -

2017年6月5日

我執(がしゅう)、中庸、中道
記事の編集
「我執(がしゅう)、中庸、中道」。物事の捉え方、考え方について三種類あり、真の幸福は中道にあるのです。

 一、我執…「我に執着する」、つまり何でも自分中心・自己本位に捉えることです。極端な例ですが、法律や規則、ルールがあります。それを破ると自分も困るし回りにも迷惑をかけることになります。
 ですが我執に囚われてると見つからなければいいじゃないか・ダメと知ってるけど仕方がないじゃないか・皆やってるからいいじゃないか・儲かるならいいじゃないかと、自分の中では最もらしい理由を付けては自分を正当化してはそれらを破るようなものです。

 要はどこまでも自己本位で捉えることです。それでいて不都合や失敗が起きれば抑もは自分が悪いのに、それを運が悪かったとか誰彼のセイにしては自己反省しない。
 そうして潔く自分の非を認めないままでいると、やがて悪因悪果の道理に従って、病気事故不慮災難等のさらなるアクシデントを招いてしまうのです。
 
 このように「我執」は一見すると自己の幸福を求めているのですが、自分中心・自己本位では幸せにはなれないということです。

 そこでその一歩上の段階をいく考え方、捉え方があるのです。それが「中庸」です。これは元々儒教から生まれたもので、要は「偏らない・バランス良く」ということです。
 
 先の法律や規則、ルールに例えていえば、我執だと破っても「見つからなければいい」と考える所を、中庸だと「見つからなければいいけど、見つかるかもしれないからやめとこう」とか、「ダメなものはダメだから諦めよう」とか、「皆平気で破ってるけど、やはりイケナイことだから破らないようにしよう」とか、「こっちら儲かるならいいかもしれないけど、掟破りは良くないからここは一つ我慢しよう」などといったように、一応は我執から一歩進んで、理性や道徳、モラルで我執を封じ込めるようなものです。
 世間一般は大概はこの中庸です。ですから何とか平和と秩序は保たれてはいるのです。
 
 ただ中庸は儒教から生まれた思想です。儒教は宗教ではないので「修行」がありません。
 つまり心を鍛えることをしません。ですから中庸で人間一生生きるのは結構案外難しかったりします。
 ですから怒ってはいけないと思っても怒るし、普段は理性で抑えてても、魔が差して我執に偏り罪を犯す人も世間にはおられるのです。

 電車で日本人は「降りる人が先」ですが、儒教の国である中国は「早いもの勝ち」な傾向があるのも、理性はあっても現実を前にすると我執になりやすい所が中庸にはあるのです。

  そこで最後が仏教の中道思想です。同じ「中」という字が使われますが、両者違いは唯一つ、慈悲が具わるかどうかという点です。
 
 中道は、人を思いやりいたわり助け合い、一緒になって悲しみ苦しみ辛さを共有し合う、そんな心が具わることです。
 先の「降りる人が先」も、乗る人よりも降りる人の身になったから生まれた自然のルールです。
 そこには我執をムリヤリ封じ込めたり、我慢を強いるものではなく、相手に対する慈悲優しさから生まれたものです。そしてその自然のルールは、自分も相手も互いに良い心地、幸せをもたらすのです。
 この心を修行によって体得するのです。
 
 本門佛立宗を開かれた日扇聖人(にっせんしょうにん)御教歌(ごきょうか)にも「よくのある 人は慈悲なし 慈悲のある 人は欲なし 妙なものかな」と仰せです。
 我執に囚われてる人は欲が強い。欲が強い人は慈悲なし。中庸も一応は理性で保ってますが薄皮のように破られやすい所があります。でも慈悲は他者中心ですから、我執に囚われず無欲であり、自他の幸福、自他安穏につながると仰せです。
 
 真の幸福は「自分さえ良ければいい」という我執にはなく、理性や理屈だけで捉えようとする中庸にもなく、唯一慈悲の実践を説く仏教の中道思想にあると。その慈悲を体得するがための仏教の修行にあると知って、どうぞ中道を心とカラダで学びましょう。





Diary V2.02 [CGIダウンロード]